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게시물ID : freeboard_135485짧은주소 복사하기
작성자 : 연필깍기
추천 : 1
조회수 : 426회
댓글수 : 4개
등록시간 : 2005/02/05 14:53:19
《高麗史》によれば 1156年(ウィゾング 11) 東海の中ウルングドがあるのにこちらの地が油っこくてチュ・ヒョンを設置した時もあって 《世宗実録》〈地理誌〉には「独島(于山島)は鬱陵島(武陵, 茂陵)といっしょに蔚珍県の東海の中あって鬱陵島であまり落ちていなくて望むことが穏かで清明な日なら見られる位置にあり傘(于山)と呼んだ.」と記録されている.
1439年(世宗 21) 対馬島の守護宗正無価平島前という人を送って物産を捧げるため野の部落人々を連れて鬱陵島に移して肉のを要請するのに 『大麻道人が国内においては普段のようだとしてももし国境を移った場合には必ず大麻道人の避けているでしょう』と言いながら断った.
成宗の時は独島を参峰も(三峯島)で, 肅宗の時は資産も(子山島)だと呼んだ. 1693年(肅宗 19) 日本漁夫が独島と鬱陵島近海まで出現して漁撈活動をするので東莱漁夫安竜福(安竜福)は日本に渡って独島が朝鮮の固有領土なのを確認受けて日本漁夫たちの鬱陵島独島近海の漁撈活動を禁止するようにした.
情調の時には独島に行くのも(可支島)だと呼んだ. 鬱陵島住民たちはおっとせいを仮題(可支魚)と呼ぶからおっとせいがよく現われる独島を枝島だと呼んだ. 1794年(情調 19) 盛り国(韓昌国)の鬱陵島流民報告書に 「鬱陵島から行って地図に向けて去ったが島近く早いで四五匹の仮題が驚いて飛び上がる模様が水牛みたいだった. 砲手がうって二匹を捕った.」と言った.
1876年以後日本漁民たちが独島と鬱陵島近海にまた出漁し始めると 1881年 (高宗 18)に厳重抗議して日本政府の謝りを受けた.
1895年(高宗 32)には道場(島長)を図鑑(島監)に変えて図鑑に鬱陵島人梨リレー(〓季周)を任命して判任官待遇をした. 朝鮮時代の独島は明らかな地理的認識の土台の上に確かな地方行政組職の管轄に属した.
1945年 8月 15日光復と一緒に株券を取り戻した大韓民国は 1947年韓国山嶽会が中心になって生物, 地理などに関する学術調査を実施したし 1952年 1月 18日李承晩大統領は `隣接海洋の主権に関する大統領宣言’を発表したが '平和船' 中に独島を含ませた.
1953年 4月 20日ホングスンチル(洪淳七) など 33人が独島義勇守備隊を結成して独島に無断上陸した日本人を退けたし 1956年まで独島を守備した後鬱陵警察署にその任務を引き継いだ.
1954年 8月 15日初めて独島燈台を点等と世界各国に燈台設置事実を知らせたしその年 9月 30日から 10月 22日まで大韓民国海軍水路国で独島を測量して原図を水路国に保存している.
1961年 12月 26日から翌年 2月26日まで国立建設研究所で地形図作成のために評判測量を実施して縮尺 1:3,000の地形図を製作した.
1978年韓国史学会で〈鬱陵島, 独島学術調査研究〉を刊行したし 1981年にはしゃくし一杯年間保存協会で 〈鬱陵島及び独島総合学術調査報告書〉を発刊した. 1980年 5月建設部国立地理院で航空写真測量方法によって 1:1,000 及び 1:5,000 大縮尺地形図を製作した.
日本は 1618年誤打だから(大谷)とムラカと(村川) 良家(両家)に独島の支配を許可するなどウールルングドに渡航を許可して約 80年間経営した以後, 固有領土である独島をドグンヒョンに公式編入条寸することで国際法の上国家領土取得の権原である先行獲得を完了したしまた東編入措置後独島実際調査及び漁撈兔許発給など国際法の上実效的支配を行事だったし, 1951年サンフランシスコ平和条約に基づいて戦争前の日本領土をまた尋ねたので独島も当然日本に帰属されなければならないと主張している.
日本文献の中で最初に言及していることは「ウンズシチォングハブギ」だ. これは関門(寛文) 7年(1667年)にサイトホセン(斉藤豊仙)が命を受けて銀器も(隠岐島)を見回る時ドルウンバを採録したのだ.
しかし独島は新羅が于山国を征腹した西紀 512年(ジズングワング 13年)から私たちの版図に入って来て今日まで綿綿として続いて来た韓国の固有領土だ. 国内文献にはそういう事実がよく現われている.
新羅を受け継いだ高麗の記録である 「高麗史」地理誌には過去于山国の領土として独島を 于山島で称したし, 鬱陵島と独島の地形を正確に把握していたことを分かる. このような事実は以後朝鮮時代記録でも一貫されるように現われる.
このように独島が長年の歳月私たちの固有領土で存在したから以後大韓帝国光武 4年 (1900) 10月 25日勅令 41号で鬱陵島を 鬱陵郡で昇格させる当時鬱陶軍需の管区で独島(石島)を明示することができたのだ.
最近 18世紀日本のキム・チョンホだと仰ぎ敬っている江戸時代指導学者Hayashi時ヘイ(林子平, 1738~93)が 1785年著わした 「三国通覧図説」の部属指導でも独島・鬱陵島を 「朝鮮の物で」明快に表記しているなど独島は明白に朝鮮の地であることだ.
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